子は母に教えられた通りに育つ

ごきげんよう!スマイリー平野😊です。

いつも笑顔会ブログをご覧いただきありがとうございます。昼間の蝉の声から夜には秋の虫の音に代わりました。スーパーの果物売り場でも西瓜が梨に代わっています。秋本番もそこまで来ていますね。

 さて、9日に関東地方を通過した大型の台風15号の影響により、千葉県を中心として関東地方の広い範囲で一時93万軒以上が停電し、現在も復旧していない地域があります。

2学期が始まったばかりなのに、学校に行けず友達とも話せない子供たちが悲しい思いをしているニュースを見ました。去年の台風で私の家も数時間の停電をしましたが、電気の無い生活が長く続く地域の方にお見舞いを申し上げます。また、関東にあるマルタマフーズグループが受託する老人福祉施設や病院では、先般の防災展で培ったノウハウを活かせるよう緊急時対応を行っています。この経験で更なるノウハウが身につくようにしなければなりません。

 今回は6月にシリーズでアップした「偉人を育てた母の言葉」大坪信之著 致知出版社から「雨にもまけず」の詞で有名な宮沢賢治の母いち の話を引用して紹介します。

以下 引用

「ひとというものは、ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのです」

故郷岩手をモチーフとして理想郷「イーハトーブ」を舞台に、宇宙的とも評される独自の世界観を持った物語を描いた童話作家・宮沢賢治。

生前は無名に近かったにもかかわらず、没後に草野心平らの尽力により、作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となりました。

宮沢賢治の母であるいちは、1877年岩手県花巻市に生まれ、1893年に賢治の父・宮沢政次郎と結婚します。そして3年後の1896年に長男である賢治が誕生しました。

いちはとても優しく気品があって立派な女性でした。賢治は、いつでも心にゆとりをもち、明るい笑顔で人に接する母のことが大好きでした。賢治は小学校時代から優秀な子どもでした。賢治と仲良しの三人組は特別に成績が良かったので、賢治の学級は優秀学級として校内中に知れ渡ったそうです。

また、彼は子どもながらに非常に判断力がありました。小学校二年生の賢治が友人と河原で遊んでいたときのことです。友人の一人がいたずらのつもりでマッチを使って枯れ草に火をつけました。火は一気に河原一面に燃え上がり、友人たちはパニックになってしまいます。賢治だけは冷静で、衣服ではたいて火を消そうとします。しかし、自分たちだけで処理することは無理だと判断すると、すぐに大人を呼びに行きました。賢治の冷静な判断力のおかげで、被害は最小限に食い止められたそうです。

 このように賢く思慮深い子どもだった賢治ですが、彼の最も優れた美徳は母親譲りの限りない優しさであったといわれています。賢治は友達思いの優しい子どもでした。

 ある日、学校で一人の生徒が赤いシャツを着て皆からはやしたてられていました。それをみかねた賢治は、「自分も今度赤いシャツを着てくるから彼をそんなにいじめないでくれ」と訴えて、皆を黙らせたそうです。

 また、道路で友達と遊んでいるとき、友人の一人が荷馬車の轍(わだち)で指先を怪我してしまいました。それを見た賢治は友人の傷口を自分の口につけ、指から出る血を吸ってやったのです。彼が小学校低学年のとき、いたずらの罰として水をみたした茶碗をもって廊下に立たされた友人がいました。かわいそうに思った賢治は、茶碗の水を全部、飲み干してしまったこともあります。

 このように優しい心を持っていた賢治ですが、その根っこには毎晩寝る前に言い聞かされていたという母の教えがありました。

 いちが何度も彼に繰り返した言葉はこのようなものでした。「ひとというものは、ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのです」

この言葉は時代を超えて、いまも生き続けるものです。この母あっての心優しい賢治だと頷ける言葉ではないでしょうか。このようにして彼は利他の精神に基づく独自の価値観を築き上げていったのです。小学校五年生のとき、賢治は父親に将来何になりたいかと問われ、「むやみに偉くならなくてもよい」と答えて、家族全員を驚かせたそうです。

賢治は幼い頃から、自分だけが得をしようということは微塵も考えてはいませんでした。

自己犠牲や利他の精神は、賢治のたくさんの作品を貫く大きなテーマであるともいえます。

 それは幼少期からの賢治の生き方そのものでした。人の為に自分は何ができるか、本当の幸せとは何かということを、賢治が生涯考え続けたのです。

 母・いちは自分の立身出世を考えようとしない賢治を見て、「どうして賢治さんは、あんなにひとのことばかりして、自分のことは、さっぱりしない人になったになったのですか」と不思議がっていたそうです。そんな母に、賢治の弟・清六は、笑ってこう答えました。

「お母さんがそう言って育てたのを忘れたのですか」親はそのことを忘れていても、子どもは何度も教えられたことは決して忘れないものなのです。

 宮沢賢治の中に生き続け、数多くの素晴らしい作品の原点となった母・いちの教え、彼ら親子の人生は、幼い頃に親が伝えたことは必ず子どもの中に残るということを教えてくれているような気がします。

毎週金曜日に、食事の場で、親子の会話の種になればと思いつれづれなるままにアップしているコーナーもそろそろ1年になります。すこしでも役立っていれば幸いです。

それでは、千葉の停電が一分でも早く復旧することを願って、ごきげんようさようなら。