偉人を育てた母の言葉 パート2


ごきげんよう!スマイリー平野😊です。

いつも笑顔会ブログをご覧いただきありがとうございます。

大阪市内は、G20サミット開催で阪神高速道路や一部一般道が通行止になる交通規制や物々しい警備で大変なことになっていますが、皆さんの生活にどんな影響がありますか? しかし、様々な影響があっても世界中の首脳が一堂に会し大阪が注目されるのは、ネイティブの関西人として嬉しいことです。プレスセンターでは、たこ焼き・串カツなどが振る舞われて、世界に向けて大阪の食文化も紹介されているようです。秋には東大阪の花園ラグビー場でワールドカップが開催されます。その時期には、東大阪市では出場国に因んだ給食献立が考案されています。給食を通じて地理や社会の勉強にもなりますね。

今週も「偉人を育てた母の言葉」大坪信之著 致知出版社から引用してお話させていただきます。  以下 引用

「かあちゃん……」と絶句し、体を震わせて涙した北野武 

深い愛と熱心な教育が天才を育てた  北野武の母・さき

 かつては日本のお笑い界を席巻し、現在では芸能界を代表するタレントとして、その発言や行動が多大な影響力を持つ人物の一人でもある北野武。活躍の場は広く、映画監督としてもその名を世界中に轟かせています。また、東京芸術大学院の映像研究科特別教授を務めるなど、今も多彩な活動を続けています。そのように「笑いの天才」「映画の天才」と呼ばれ、一時代を築いた彼を育てたお母さんのお話を紹介したいと思います。

北野武は東京都の足立区で、父・菊次郎と母・さきの間に五男として生まれます。彼の本名である「武」という名前は、竹のようにどんなものにも耐えて、すくすく伸びてほしいとの願いを込めて命名されました。武の母・さきは独自の教育論を持ち、教育を第一に考える女性でした。若い頃から頭の回転の早い女性だった彼女は、子どもたちの教育と成長を何よりも大切に考え、そのためには寸暇を惜しまず手を貸しました。さきは子どもたちが十歳になるまでは、毎晩欠かさず鉛筆を削り、ノートにきちんと学習の後が記されているかを確認していました。子どもたちが登校した後も、彼女は休まず子どものことを考えます。

朝十時になると学校へ足を運び、教室の窓から子どもたちが勉強する様子を見守っていたというのです。それほど彼女は教育熱心な女性でした。

 こんな彼女の熱心な教育が北野武のような奇才を育てたのです。兄姉と年齢が離れた末っ子だった武を、さきは特に気にかけていたようです。小学校の遠足の際には、「この子は吐きやすいから」と同行して、息子の面倒を見ていたほどに常に彼の身を案じていたのです。

 貧しかった北野家では、小さな裸電球の下のみかん箱のような机で、子どもたちが勉強をしていました。しかし、父・菊次郎が帰ってくると電球が明るくて眠れないと怒鳴ります。そこでさきがどうしたかと言うと、大きな懐中電灯と塩むすびを携えて、近所の街灯の下へ出かけていくのです。そのでしゃがんで本を読む子どもたちを、ずっと懐中電灯で照らしていたというのだから驚きです。

 教育熱心だった彼女のエピソードは他にも多く残っています。武は高校卒業後、明治大学に入学しますが、次第に自分にしかできないものに挑戦したいと考えるようになり、大学を中退します。その後の彼はお母さんの期待をはるかに上回るような活躍を繰り広げていくのです。武が幼少期に教育熱心な母に教えられて蓄えた教養や考える力は、タレント、映画監督、作家、教授など様々な分野にわたる活躍の礎となりました。母の存在があったからこそ、武の才能が育まれたのです。

 そんな母・さきですが、武が「ツービート」として有名になり始めた頃から、お金を母に納めるよう、しつこく訴えるようになりました。武は母も金の亡者になってしまったのかと半分あきれていたそうです。しかし、後になって真実が明らかになります。武は軽井沢に母をお見舞いに行き、その帰り際に姉から包みを受け取ります。さきからだというのです。

包みを開けた武は息を呑みました。それは、彼名義の郵便預金通帳と印鑑だったのです。

 さきが武から小遣いとしてねだり受け取っていたお金は一銭も使うことなく、すべて彼のために貯金されていたのです。その総額は一千万円近くにも達していたそうです。さきはいつも、「芸人はいつ落ち目になるかわからない」と彼を案じていました。彼の人気がなっくなっても困らないようにと、お金を貯めておいたのです。彼はこの包みを握りしめ、涙が止まらなかったといいます。

 武は自らの母のことが大好きだと公言しています。「三十歳を過ぎて親を許せない奴はバカだ」とも言っています。自分に愛情と熱心な教育を与えた母の影響力は彼にとって、とてつもなく大きなものだったのでしょう。さきが入院しているときには頻繁に病室を訪れ、母の身を労わったといいます。

1999年8月、さきが亡くなったお通夜の記者会見で、武は「かあちゃん……」と絶句し、体躯をふるわせて涙を流しました。カメラや人目をはばからずに泣き崩れる彼の姿に、インタビュアーや視聴者ももらい泣きせずにはいられませんでした。いかに彼の心の中で母の存在が大きかったかがよくわかる出来事でした。このように海よりも深い愛情と熱心な教育、心を尽くした母・さきの子育ては北野武の心に大きな影響を与え、類まれなる才能を育てたのです。   引用おわり

当時のワイドショーなどで北野武さんがインタビューを受けて泣いている姿は、記憶にあり本を読んで改めて目頭が熱くなりました。

「父母恩重経」(ぶもおんじゅうきょう)というお経があります。お釈迦様のお母さん、摩耶婦人はお釈迦様をお産みになって7日後に亡くなっています。大変な難産だったのです。父母恩重経の中に子どもを産む時の母親は命がけであることも説かれています。

 また、詠み人知らずですが、「諸人よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」という歌もあります。

 「誕生日おめでとう」もいいけれど、是非、お母さんありがとう。の気持ちをわすれないようにしないといけませんね。来週は、野口英世のお母さんの話を書かせていただきます。

G20大阪サミットの成功を祈りつつ、ごきげんよう! さようなら。