お弁当の思い出
ごきげんよう! スマイリー平野😊です。
いつも笑顔会ブログをご覧いただきありがとうございます。
今日は、先週に引き続き「お米のお話」と考えていましたが、変更してお弁当のお話をさせていただきます。 先ずは、以前、読んだ本からの引用から・・・
「すごい弁当力!」佐藤剛史著 五月書房
◎不格好で大きなおにぎり(二十代・女性)
私のお母さんのおにぎりは丸くて、決まっていつも大きめ。友達の三角おにぎりに比べると不格好で大きくて。小学校だった私はそれが恥ずかしかった。お母さんもお弁当も大好きだったけど、おにぎりはちょっと嫌だった。
ある日の遠足。お弁当には、いつものおにぎり。頑張って食べるけど、大きくてなかなか減らない。みんなお弁当を食べ終わってだんだん遊びに行ってしまう。「私も早く食べなきゃ」って思うけど、しっかりむすばれたおにぎりはなかなか減らない。
おにぎりを残して遊びに行こうとお弁当箱をしまいかけたとき「お母さんが朝早くから作ってくれたお弁当やけん、最後まで食べような」と先生が声をかけてきた。
あわててお弁当箱を取り出して必死におにぎりを食べた。でもやっぱり大きくて、結局、休み時間が終わってしまった。ウチに帰って、お母さんに抱きついて泣いた。
「お願いやけん、もう少しおにぎり小さくして」って。
お母さん、ごめん。あのお母さんのおにぎり、もう一回、食べたいなぁ。
◎仲間はずれの日の弁当(大学三年生・女子)
小学校のとき友達とケンカをした。仲直りできないまま迎えた運動会の日。生徒は、教室に戻って弁当を食べるのが学校のルールだった。教室に戻ると、友達は輪を作り、すでにお弁当を食べていた。私の入る場所はなかった。私は仲間はずれにされていた。
お弁当を残して帰るわけにもいかないし、教室の隅で、一人で食べることにした。フタを開けると、いつもより豪華なおかず。いつもは白ご飯をつめるだけなのに、わざわざ握ってあるおにぎり。
「こんなお弁当を作ってくれるほど、私は母に愛されているのに、なんで、今、私は一人ぼっちなんだろう」と涙があふれそうになった。
そんな私に気づいてくれたのか、いつも一緒に遊んだりしない子が「一緒に食べよ」と声をかけてくれた。すごく辛くて、すごくあたたかい私のお弁当の思い出です。
◎入院した母の久しぶりの弁当(大学三年生・男子)
私が中学三年の頃、学校給食はなく、弁当は各自持参だった。私は部活が忙しくて、家事の手伝いなどまったくせず、すべて母に任せっきりだった。
そんなある日母が入院した。一ヵ月少しかかる、ということだった。家には、父、弟、そして私。毎日の食事が様変わりした。朝夕のご飯は父と協力していたのだが、昼の弁当はどうしてもコンビニ弁当になった。
一ヵ月後、ようやく母は退院。しかし、すぐに立ち働くことはもちろんできない。安静にしておくようにと言われていた。
ある日、驚いた。体育が終わって教室に戻ろうとすると、玄関の靴箱に弁当が入っていた。
僕のだ。そして中には手紙。
「今までごめんね」
弁当を作ってもらえることのありがたさと、うれしさを実感した。
それが当たり前だと思っていた自分が恥ずかしかった。
◎ 弁当箱の中のメッセージ(大学一年生・女子)
初めて受験という人生の勝負を迎えた日の昼休み。周りには友達もいなくて、一人ぼっちの昼食時間を過ごすことになった。中学校でも昼食はいつも母の手作り弁当。
もちろん、高校受験当日のこの日もいつもの弁当袋にいつもの二段弁当箱。
そしていつものように保冷剤で湿ったフタを気にしながら開けた。フルーツの入った一段目と、ご飯とおかずの二段目を机に広げたとき、サランラップのカタマリが二段目のフタにひっついていることに気づいた。中には小さなメモが入っていた。
「あーちゃんへ。今日まで頑張ってきたからダイジョーブ。頭のいいのはママの子だし!自信をもってBESTを尽くしてね。ファイトー! 一発!!」
母も、保冷剤の湿りを気にしてサランラップにくるんでくれていたのだが、危うくゴミと間違えるところだった。ゴミになりかけた手紙を読みながら、ニヤケながら弁当を食べた。
いつもの味だった。いつもの母の字だった。おかげで緊張がほぐれた。
大阪府は全国で中学校給食普及率が一番低くて13%程度です。(因みに2位は神奈川県16%、3位は滋賀県46%で、ダントツに大阪府と神奈川県が低い) 私もネイティブ大阪人なので、中学生の時は毎日、母親に弁当を作ってもらっていました。今のように冷凍食品が普及していない昭和の40年年代で手間がかかったことだと思います。マルタマフーズでは河内長野市立学校給食センターでは、オーダー制の中学校弁当を作っています。そして、中学校給食の 三重県伊賀市のいがっこ給食センターでは、先月2日間にわたり「保護者試食会」が開催されました。「栄養教諭の先生のお話」、「参加されたお母さんの感想」、「調理員の遣り甲斐」などを考えながら名阪国道を車で帰ってきました。お母さんに代わって、どんな思い出づくりができるのか、学校給食に関わる仕事の意味は深いと改めて感じる今日この頃です。
皆さんのお弁当の思い出のエピソードはどんなことですか?
それでは、ごきげんよう。